先日、自分がしてきたことが、誤解を生んでしまった。
そして、相手にショックを与えてしまった。
…それが、自分にとってもショックだった。
日本人は基本的に「親切」な国民だと思う。
だって、それが当たり前だから。
まして、ボランティアをしている人は、
その温度差があるにしても、
「親切」にしたいから活動に参加している。
日本語TUTORは、外国人に「親切」にするのが役目だ。
しかし、その「親切」さが
違う社会背景を持った外国人には、
時に「友情」「愛情」と受け取られかねない。
まして、異国の地で孤独感に苛まれながら、
日本人との交流を求めている外国人ならば、
神の救いにも似た拠所となるだろう。
しかし、日本語TUTORは
学習者と「友達」にはなれない。
いや、「友達」になってはならない。
TUTOR(先生)と学習者(生徒)という関係は、
「親切」に一線を画すのである。
学習者からの「あなたは親切です」には、注意を払わねばならない。
英語の「Kind」や、中国語の「亲切」は、
「心から」「親しく」「心のこもった」「優しさ」
という意味を帯びている。
日本人の考える「親切」とは若干異なるように思う。
日本人の考える「親切」には、感情的な意味は薄いと思う。
見ず知らずの人にさえ「親切」にできるのだから。
たとえば、
「電車の中で、赤ちゃんを抱いたお母さんに席を譲った」
としたら、これは「親切」である。
でも、そのお母さんに対して、何らかの情動は起こるだろうか?
よほどのことがない限り、感情的な変化は起こらないだろう。
どちらかといえば、「親切な行動」をした自分自身に、
満足感を味わうに違いない。
ボランティアの「親切」は、
「困っているから手を差し伸べ、できる範囲で支援をしたい…」
ただ、それだけの思いだ。
そこに感情的な「優しさ」や「親しさ」はない。
日本語TUTORであるならば、感情的になるべからず。
そして、「親切」が誤解されないよう配慮すべきだ。
まず「親切」の意味を教えるのも、一つの方法かもしれない。
2011年01月11日
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